井上馨侯遭難の地
井上馨侯遭難の地

井上馨侯遭難の地

井上馨侯遭難の地

ここを左に10m歩くと交差点に出ます。交差点を左に行ったところに袖解橋があります。道幅の狭さの割に立派な石碑です。

 

井上馨侯遭難の地

これは横から見たところです。「大正六年九月一日建」と刻まれています。

 

井上馨侯遭難の地

元治元年(一八六四)幕府は京都蛤御門の変を理由に長州征伐の軍を進めたが、長州藩ではこれに対して恭順の意を表すべきだとする保守派が、少壮有意の正義派をしりぞけ責任者を処罰した。九月二十五日藩主の前で開かれた会議で井上馨(聞多)は恭順派と争い武備を整えて幕府に対すべきだと主張したため、湯田の自宅への帰路、この地において反対派の壮士に重傷を負わされた。しかし名医所郁太郎の手当てにより一命をとりとめた。その後明治政府に仕えた井上馨は外務、農商務大臣を経て明治二十五年内務大臣となり、更に大蔵大臣となって条約改正、行政整理、日清戦争後の運営などに当った。晩年は実業に入ったが政界にも大きな力をもち各種の事業を育成した。(現地の説明板による)

では。


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