松崎少佐散華の地之碑
松崎少佐散華の地之碑

松崎少佐散華の地之碑

松崎少佐散華の地之碑

松崎少佐は、福岡県前原市出身で時に24歳であった。大東亜戦争末期の昭和20年7月28日午前8時頃、米軍機グラマン6機を迎撃せんと友軍機「疾風」13機は小月飛行場を発進した。少佐は僚機と共に勇敢に交戦したが少佐機は、不幸にも豊東小学校上空で被弾し、下大野三町川上流沿いの山中に撃墜、名誉の戦死を遂げられた。祖国を守らんとして尊い礎となられた少佐の心を風化させることなく永久の平和を祈りつゝ後世に語り継ぐため顕彰するものである。(現地の碑文による)

 

松崎少佐散華の地之碑

第2次大戦末期、現在の下関市上空で日本軍と米軍機の戦闘があり、日本兵6人が命を落とした。2年前、その1人の遺品が遺族の元に帰り、それを機に地元の有志が慰霊碑を建立した。今年で戦後60年。戦闘のあった7月28日、同市菊川町の碑の前であらためて慰霊祭を開き、不戦を誓う。松崎真一少佐。福岡県前原市出身で、旧制糸島中学を出たあと、陸軍士官学校を卒業した。飛行隊に所属し、1945年7月下旬、下関市の小月飛行場に駐屯した。地元に残る資料によると、戦闘は同月28日朝始まった。米国機グラマンと日本軍の疾風(はやて)の空中戦となり、松崎少佐の戦闘機は撃墜され、仲間とともに24歳で戦死した。28日で戦闘からちょうど60年。慰霊祭は同日午前10時から碑の前で行われる。藤成さんは「今の平和があるのは彼らの犠牲があってこそ。顕彰し、平和を願いたい」と話した。(アサヒコムによるニュース、2チャンネルによる2005年7月29日)

 

松崎少佐散華の地之碑

菊川町下保木の木屋川沿いの山際にたてられています。

 

松崎少佐散華の地之碑

由来の記

では。

(撮影日2009.04.17)


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