下関と龍馬「桜柳亭跡」「三好慎蔵邸跡」「三好慎蔵生家跡」「集童場設立の地」
下関と龍馬「桜柳亭跡」「三好慎蔵邸跡」「三好慎蔵生家跡」「集童場設立の地」

下関と龍馬「桜柳亭跡」「三好慎蔵邸跡」「三好慎蔵生家跡」「集童場設立の地」

桜柳亭跡

紅葉も終わりかけて、騒がしかった長府の秋の観光シーズンも終わりに近づいてます。商店街のあちこちで見かける観光客も、このあたりには来ないようで、まあ、地元の方も、ほとんど通ることのない道にぽつんとあります。

 

桜柳亭跡

私塾「桜柳亭跡」です。この説明板が建てられるまで私はその存在すら知らなかったので、坂本龍馬関連説明板を建てた意味は大いにあったと思います。藩校敬業館(けいぎょうかん)で漢詩を教授していた福田扇馬(ふくだせんま)が、藩士のみならず、広く一般にも門を開こうと設立した私塾「桜柳亭」の跡地。彼の理念は、のちに藩内年少者を対象にした「集童場」に受け継がれました。その後、英語や航海術の必要性を痛感した扇馬は、坂本龍馬の協力を得、長府の若者たちを率いて長崎に赴き、英語などを学びました。維新後、扇馬はこの時の経験を もって大阪で英語を教授して後進の育成に励み、また、共に長崎留学をした長府の若者たちは、新政府の技師や海軍の軍人として活躍しています。

 

三好慎蔵邸跡

スーパーのマルショクの前の道を少し南に行ったところにある「三好慎蔵邸跡」。

 

三好慎蔵邸跡

慶応2年(1866年)1月23日、伏見の寺田屋で坂本龍馬とともに遭難して以来、厚い友情で結ばれた長府藩士三吉慎蔵の屋敷跡。龍馬は同家を訪ねた際、敷地内に建っていた蔵の中で、慎蔵と密談を交わしていたといいます。なお、三吉慎蔵は「謹厳無双(きんげんむそう)」と称されるほど実直な人柄で、また宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の使い手としても知られています。なお、慎蔵の墓所は功山寺にあります。(説明板による)

 

三好慎蔵生家跡

これは少し離れてます。覚苑寺近く「三好慎蔵生家跡」。説明板には三好慎蔵は「龍馬の大親友」と書かれてます。

 

三好慎蔵生家跡

坂本龍馬の盟友三吉慎蔵の小坂家の跡。天保2年(1831年)10月11日、長府藩の剣術指南小坂土佐九郎(こさかとさくろう)の次男として出生した慎蔵は、7歳の時に父の門に入り、日々鍛錬に打ち込む少年時代を過ごしました。
なお、慎蔵の墓所は功山寺にあります。(説明板による)

 

集童場設立の地

で、ついでです。古江小路にある「集童場設立の地」です。ここも観光客は見逃しそうな場所です。「集童場」といえば豊浦小学校の教室にもその名前がつけられていました。息子が通っていたころは変わった名前だなと思ってただけでしたが、歴史のある名前を教室に付けていたんですね。

 

集童場設立の地

文久二年(一八六二)に福田扇馬が設けた家塾「桜柳亭」を母体とし 元治元年(一八六四)三月藩士熊野直介らが藩に誓願 古江小路に藩校「集童場」が設立 された。十五歳以上の藩士の子弟を対象とした藩校「敬業館」に対し 集童場は十五歳以下の少年で 身分の別なく時勢の求める人材を育成しようとするもので  長府藩の「松下村塾」ともいうべき存在であった。塾に学んだ者の中には明治を代表する人物 乃木希典、長府博物館の設立者 桂弥一 、日本のマッチ王と呼ば れた瀧川辨三などがある。のち集童場は敬業館と統合 現在県立豊浦高校へと受けつがれている。(現地の説明板による)

では。


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