道の両側に田んぼが広がっているところにぽつんとあったこの石碑。
近寄ってみると七義民の留魂とあります。
石碑によると、
享保2年(1717)春、入会権のない仁保の山野へ、深野、長野の農民が不法侵入して芝草を刈り取っていった。
その後不法侵入があとを絶たないことから、藩庁の役人は仁保、深野、長野の庄屋を呼び出して再三協議がもたれたが遂に決裂。その最中、仁保の農民八百余人が高野ヶ原で蜂起、一揆と化した農民は訴状を携えて、上郷の平谷を越え、篠目側の入道ヶ原へ集結した。
その事を知った藩庁の代官、飯田五郎兵衛は所務台の木原惣左衛門と他数人の役人を引き連れ、入道ヶ原へ急行、農民一揆と協議した結果騒ぎは一応静まった。その後萩本陣の裁可で仁保側の勝訴となったが、日保の庄屋等が入会権について藩庁へ提訴したことと、藩命に逆らった一揆の暴動を鎮圧出岐なかった事を理由に、仁保のために活躍した七庄屋がその責任を問われ処断」されることになった。
(中略)
役人たちは蒲生の下田河原で七庄屋を処刑、時に享保3年12月6日の事であった。後世、仁保の人々は、いわれなき冤罪で刑死した七庄屋を義民として崇め、その徳を「下田しぐれ」に顕し今に語り継がれている。七義民の墓碑(六地蔵)は下田見性院跡の下方にあり、250年忌(昭和42年)には同所近くへ新しい墓碑が建立された。
(後略)
こういう話、江戸時代には頻繁にあったように思われます。悲しいことです。
(撮影日2009.05.27)