キム・ギドク監督の「絶対の愛」を見たよ。
キム・ギドク監督の「絶対の愛」を見たよ。

キム・ギドク監督の「絶対の愛」を見たよ。

キム・ギドク(Kim Ki Duk)監督の「絶対の愛」(time)をHULU で。

「伊集院光の週末TSUTAYAに行ってこれ借りよう!」で紹介されていた映画です。TUTAYAに行かなくても、近くのゲオに行かなくてもHULUで見ることが出来たのでわざわざ出かける必要がなくラッキーでした。

いつの時代でも、また世界のあらゆる場所で女性は愛に確信が持てなくなって不安になると愛を確かめようとします。その不安とは男性がセックスに積極的でなくなったり、うまくいかなかったりした場合ですが、女は男に聞くんですね。「私の顔に飽きたんでしょう、私に飽きたんでしょう。」と。

でも男は女への愛に醒めたわけでも、女に飽きたわけでもないんですよね。こういうこと男なら実感できるところがあります。ところがここがよくわからないのですが、この映画では女は愛を確かめるために自分の顔を整形して別人になってしまうのです。これは愛しているのは顔が綺麗だからじゃないの?、という疑問を確かめるため。

「私が好きなのは顔がきれいだからでしょ?」て聞かれると、大抵の男は「顔じゃない」と答えると思いますね。

「体が目的でしょう」と聞かれると、「体が目的じゃない」と答えますね。「きみのすべてが欲しい。」

愛する女性は顔のつくりがいいから好きなわけじゃなくて、愛しているからその顔が好きなのだし、愛しているから抱きたくなるんです。抱きたいから愛しているわけじゃないと思うんだけど。

耳に響く心地よい声だったり、手を繋いだ時の肌のぬくもりだったり、触れあう肌のすべしべした感触だったり、そばに寄り添う時の空気感すべてが愛おしいいものです。

つまりは全部ひっくるめて愛してるってことだと思うんだけど。

で、女は整形して姿を変えて男を試そうとするのです。でなんやかかんやらいろいろあって、最後は男の方も女の愛を試そうと思うのです。

これ無限ループだよね。相手を見わけるのは顔だからね。韓国の彫刻公園の彫刻がとても映画にマッチしていました。行ってみたくなりましたね。

この監督知らなかったんですけど、ウィキでみると1960年生まれだから今55歳です。脚本家、映画監督で2012年に『嘆きのピエタ』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞をとってるということです。有名な方らしいです。機会があれば別の映画も見てみたいと思います。

では。