勝山御殿跡
勝山御殿跡

勝山御殿跡

勝山御殿跡

勝山御殿は田倉の住宅街を抜けた四王司山の麓にあります。ここから先には住宅はありません。

 

勝山御殿跡

1863年(文久3年)風雲急を告げる幕末、関門海峡において外国船との間に戦いが起こる。当時の長府藩主毛利元周は、海岸に近い串崎城が危険なため急遽この地に白を起工する。わずか7ヶ月で完成しスピード築城の記録となっている。今も残る石垣や石畳は御坐の門、大書院室、御寝所など60余りの部屋を持つ御殿があったことを忍ばせるに十分な威容を残している。
(現地の説明板)

 

勝山御殿跡

石垣の間の階段を登ると、何もない広場が広がっているだけです。明治4年の廃藩置県によって城は取り壊されました。
今ではこの空き地の広さによってお城の大きさを想像するしかありません。

 

勝山御殿跡

勝山御殿のあるところ
勝山御殿は、それまで藩邸があった長府宮崎の海岸近くから、東へ山ひとつ隔てた砂子多川上流の奥地に築かれました。
そこは周囲三方を山地に囲まれた深い谷筋にあります。北側は峠を越え、員光に抜けることができ、南側は砂子多川によって開かれた扇状地で、前面の平野部を眺望できます。これにより、堅固な守りを考慮しており、まさに自然の要害といえます。(「勝山御殿跡現地説明会資料平成20年7月19日」)

 

勝山御殿跡

勝山御殿の特徴
幕末期に築城された勝山御殿跡は、戦国時代から江戸時代始めに築かれた城郭にはない特徴をもっています。1つは、江戸時代を通じて発展した机上の軍学に基づき設計された縄張りを持つことで、「横矢掛かり」を多用した郭形態を持っています。また、石垣の積み方が、江戸時代に神社仏閣の石積みにより発展した「落とし積み」の技法を用いられたことが特徴の1つとして挙げられます。加えて、勝山御殿跡の城壁は石積みの上に土塁を併せ持つことも特徴の1つで、これは大砲の着弾を吸収する役割をもちます。(「勝山御殿跡現地説明会資料平成20年7月19日」)

 

勝山御殿跡

勝山御殿跡の一画に「ミツガシワ」の樹が自生しています。ミツガシワは地質時代第四紀洪積世氷河期の遺存植物で山口県でも数カ所にしか残っていないそうです。

では。

(撮影日2009.04.15)


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