中郷八幡宮の参道です。この参道は桜の名所です。季節には国道からも満開の桜を見ることができます。
写真を撮ったのは3月8日です。桜の季節にはまだ早いです。
社号額。
社殿では大内弘貞が豊前宇佐八幡宮から勧請したとある。かって八幡宮には重要文化財ともいえる立派な楼門があったが、明治45年(1912)に焼失した。飛騨の名工竹田番匠が建てたといわれるが、楼門の棟札のみ残った。表に「八幡宮」、裏に「応永廿八年」(1421)とある。棟札はいま小郡文化資料館に保存されている。(「ふるさと小郡たずねある記100選」)
手水舎。
鐘楼です。神社にある鐘楼は神仏習合の名残りだと思います。
中郷八幡宮の由来について
祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 例祭 九月十四日、十五日
八幡宮の鎮座について
本八幡宮の鎮座年月ははっきりしないが足利時代防長石見の守護職であった大内氏の鎮守として社領も当時としても二十石を有したことを思へば大きい社であったは瞭然としております。その昔大内弘貞公が九州宇佐八幡宮本宮より勧請したもので其の際宇佐葛原村在住の葛原氏がその供奉役として来郷して本地住居して神事に従し私共先祖氏子代々の鎮守のみ柱として日夜御加護を受けております。(本殿内由緒書きによる)
中郷遺跡(貝塚)
中郷八幡宮内(標高三〇メートル)の貝塚はこの藤棚の下にあり、一九二八(昭和三)年弘津史文氏がはじめて紹介した。その後の調査で、南北五・五メートル、東西四・五メートル、厚さ五〇~四〇の規模をもつことが分かり、古代の人々が食用にしていた貝類(ハイガイ・マガキを主としてテングニシ・ハナグリ・ヤマトシジミなど)の外、弥生時代中期(約二千年前)の特徴を示すつぼ型やかめ型の土器・石器・動物の頭骨が出土した。その頃、現在の椹野川の下流は入り江になっていて、人々は台地に住み農耕や狩猟のかたわら、漁労の生活をしていたと考えられている。(現地の説明板による)
中郷八幡宮殿の左側に市指定文化財「中郷遺跡(貝塚)」の説明がある。直径約5m、深さ約70cmの規模をもつ貝塚で昭和初年に発見された。貝にはハマグリ、シジミ、カキなどいまも身近なものがり、獣の骨でつくった針なども出土した。昭和53年、小郡町が遺跡として指定。貝塚の上の藤棚も古い。奥はまた貴重な照葉樹林となっている。(「ふるさと小郡たずねある記100選」)
では。
(撮影日2009.03.08)