幡生宮の下町にある生野神社です。参道下の一の鳥居です。とてもわかりにくいのですが、車参道は県道側にあります。
結構急な階段です。
二の鳥居から見る拝殿。
拝殿です。
階段を登って左にある手水舎と由緒書。
生野神社(旧幡生八幡宮)御由緒
御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神 (多紀理比売命・多岐都比売命・寸嶋比売命)彌都波能売神
御由緒 第五十六代清和天皇、貞観二年(千百数十年前)九月の創祀。当時京都大安寺の僧行教天皇の勅命を受け、九州宇佐八幡宮に趣き、八幡宮の御分神を奉戴して、京都男山(今の石清水八幡宮)に皈る途中、当地が清地であり又、神功皇后ゆかりの地であることから、ここに仮泊し、御分神を奉祀したと伝えられる。又、古来武将の崇敬も篤く文禄元年豊臣秀吉、朝鮮の役に出陣の際、松の木を八本手植し、戦勝を祈願したと云う(落雷の為、大正六年県知事認可の上、処分、拝殿正面の奉納額、松皮はその一部である)。昔はこの附近数ヶ村の総氏神として、地方人の崇敬は篤かった。響灘に浮かぶ六連島も古くはこの神社の氏子であったが海上遠い為、昭和四年二月、この神社より御分神を勧請して六連島八幡宮を建立した。(現地の説明板による)
拝殿前右の狛犬です。
拝殿前左の狛犬。
拝殿右奥にある社務所。
拝殿の左側にある豊太閤御手植松記念碑です。
文禄の役、豊太閤御手植松記念碑
文禄元年(一五九二年)豊臣秀吉朝鮮出兵に当たり、松の木八本を手植し戦勝祈願をした故事により、千方土地有限会社記念碑を設ける。七本は江戸期に枯れ、1本のみ残ったが、枯死した。落雷、倒木等危険なため、大正六年(一九一七年)山口県知事申請、許可を以って伐採する。当村、岡田新槌、その松皮を額縁に納め奉納する。(拝殿内正面、松皮額)尚、石碑正面の陶板写真は伐採前の姿である。(大正六年頃撮影)石碑の円形台座は、目通り高さの幹の大きさを表す、1メートル四十七センチ、樹高、三十五メートル。(現地の説明板)
拝殿の右には白い幸せふくろうの像があります。ふくろうの横の道は宮山古墳に続いています。
幸せふくろう
梟は世界中の人より可愛がられ珍重されている鳥です。あて字も色々あります。福朗、不苦労、福老、福来等々福を呼び幸運を運ぶという鳥、生野神社に生息し、今も泣いています。ふくろうは首が一八〇度回ることから金回りが良い、商売繁盛金運上がるといわれています。ふくろうは夜でも目がよく見える世の中を広く見渡せると。世の中も豊に家庭家族も皆豊我が身、心も豊にいくの(生野)ふくろうの頭をホー(豊)、ホー、ホーと三回なぜて三度唱えて、三豊(三宝)願い。(現地の張り紙による)
文字通り、ホー、ホー、ホーと言って、ふくろうのあたまをなでて来ました。(なぜる、というのは方言ですね)幸せが来るといいなあ。ふくろうの鳴き声がどんな物か知りませんが、境内で鳴いているようではありませんでした。夜でないと鳴かないのかな。
では。
(撮影日2009.04.10)