引接寺から李鴻章道を通って赤間神宮まで行くことにします。通りを曲がるとこの表示が見えてきます。
階段があって手すりには藤原義江の看板が取り付けられています。藤原義江って誰?知る人ぞ知る大衆オペラ歌手で男です。
そこへ兎が飛んで出て、ころりころげた木の根っこ。
ほら覚えてる。それは蓄音機の第一次の全盛時代と重なる。
全部、当時売出しの藤原義江が歌った。それで覚えた。
(「百年分を一時間で」山本夏彦)
藤原義江(ふじわらよしえ)
明治31年(1898)~ 昭和51年(1976)父はスコットランド人、ネール・ブロディ・リード、母は下関で活動していた琵琶芸者、坂田キク。18歳の時に観た新国劇に入団「戸山英二郎」の名で端役を務める。「われらがテナー」藤原義江は世界的テナー歌手で、藤原歌劇団の創始者で日本のオペラの基礎をつくった人物です。古川薫が藤原義江を題材にした小説「漂泊者のアリア」で第104回直木賞を受賞しました。
階段を登って行くと「紅葉館」の表示がありました。
藤原義江にとって下関は故郷である。彼は貿易会社・瓜生商会の支配人であった英国人の父と母の間に生まれた。昭和三年(1928)、二十九歳のとき中上川あきと再婚した。二児を置いて離婚、単身ヨーロッパへ行って藤原と再婚した中川上あきは、中川上彦次郎の娘であった。藤原夫妻と下関には深い縁がある。二十五年の結婚生活ののちに藤原義江と別れたあきは、NHKテレビ「私の秘密」の回答者となって知名度を高め、昭和三十七年、参議院のタレント議員第一号となったが、五年後、在職中に亡くなった。藤原義江はあきより十年長く生き、昭和五十二年、帝国ホテル住まいのまま死んだ。七十七歳だった。(083うみやまたいよう第4号「下関、駅と鉄道の物語」関川夏央)
階段につたなどがからまっていたり、ペンキの剥げかけた案内板といいちょっぴりひなびた感じです。
夕日を浴びた記念館はレトロでもの悲しい雰囲気があります。草が生えていて建物自体も荒れた感じですね。
この洋館は英国系商社ホーム・リンガー商会の社長令息のために建てられたもので、藤原義江は住んだことはないそうです。事前に連絡しておけば、中を見せてもらえるそうです。( 083-234-4015)
藤原義江記念館の前庭からは関門海峡がよく見えます。しばらく景色を楽しんだ跡、階段を降りて李鴻章の道へもどります。
では。
(撮影日2009.04.21)