この寺は仁平元年(1151)創建したといい、開山も開基も不明で、年号をもって寺号としたものです。正平7年(1352)大内弘幸が本堂を修造し、その供養会が鎮守山王の社頭で法楽舞が行われました。、また、大内弘世のとき、仁王門、五重塔などを建立したと伝えられています。天保年間の記録では、その頃より100年ばかり前には五重塔が朽ちながらも立っていたと記載されています。大内氏滅亡後寺は徐々に衰微したものと思われます。(「ふるさと山口」)
山号を菅内山といい、仁平元年(1151)の創建で、年号をもって寺号とした仁平寺の跡である。注進案によれば、当時は五重塔があり、本堂にいたる道の左右には本坊、東蔵坊、蓮池坊があったのでその地名があったという。このことは本堂供養日記にもその記事があり、これによると、供養は舞楽舞踏が行われる等、頗る盛大であったことが、うかがえる。また、五重の塔の礎石が残っていたといわれるが、溜池築造のため取り除かれてしまっている。(現地の説明板による)
寺の跡と言うことでしたが、説明板にあるように、どこを探しても痕跡は見あたりませんでした。ただただ、この説明板のみがぽつんとあるだけです。この右の道に左右に坊があったのでしょうか。道は左右に畑を見ながら山の中に続いています。他には何もありませんでした。1000年前は今より賑やかで開けた場所だったのでしょうか、今は田園、畑ばかりが広がるとても鄙びた場所になっています。
ふるさと山口では「裏山にある歴代住職の墓」の写真が載っていたのですが、探せば見つかったのかもしれませんが、裏山がどこなのかわかりませんでした。
では。