安徳天皇西市御陵墓参考地(あんとくてんのうにしいちごりょうぼさんこうち)です。場所は豊田湖の一番北、俵山温泉にちかい場所にあります。
宮内庁書陵部 安徳天皇西市御陵墓 屋島で大敗した平家は、瀬戸内海を西に壇ノ浦まで走り、 ここを最後の決戦場として戦いにのぞんだが、源氏の急追には抗しきれず、またもさんざんに敗れ、将兵の多くは海中に没した。また先帝(安徳天皇)や三種の神器までもがご入水となった。ときに元歴二年(1185年)3月24日のことである。
源の義経は朝廷から、ただちに先帝と神器を無事に取り戻すという条件で平家の追討を許されていたので、このご入水は大失策であった。義経はただちに先帝と神器捜索を命じ、神器の一つの御鏡は先帝の御座船で発見されたが、 宝剣と御玉はなかった。
さいわいにして御玉は箱に納めてあったので、 会場に浮かんでいるのを拾い上げたが、宝剣は先帝とともに海中にあるため、 長門国一円の綱引海人を招集して、付近の海を捜索した。 綱を引いているうち、3月28日、大津部三隅荘沢江浦から来ていた海人の綱に先帝のご遺体がかかったが、宝剣は発見することができなかった。
義経は 「尊体ハ御座ナガラ宝剣ナキ事都ニ奏せば義経ノ失策で密ニ山陽道も隔地に埋葬ルベシ」 と伊勢三郎義盛に命じ、地吉の丸尾山(今の安徳天皇御陵墓)の南側の上に埋葬し奉った。そうして朝廷へは「旧王(安徳天皇のこと)ノ御事ハ分明セズ」と報告している。これが後生の人びとをして幼帝に対する痛ましさのあまり、 安徳天皇の御潜幸説となり、各地に御陵墓や伝説地が生じた所以である。
以上のように、安徳天皇のご遺体を極秘のうちに地吉の丸尾山の埋葬し葬ったため、当時の記録には残っていないがこの陵墓の形は立派な天皇の墳墓である。丸尾山は前方後円墳の形をしているから安徳天皇のお墓であるというものもいるが、誤りである。
現在は、上円部がややくずれているが、 丸尾山の南の森には上円下方墳の御陵が築かれていたもので、昭和2年11月30日、宮内省から「安徳天皇西市御陵墓参考地」と指定された。祭典 4月24日午前11時 場所 豊田町地吉安徳天皇御陵墓前。(道の駅「蛍街道西ノ市」においてあった案内文による)
御陵墓のある場所は、豊田湖の湖畔北部、もうほとんど長門市に近いところで、道がカーブしているところで、気が付かないと通り過ぎてしまいます。右に地吉(じよし)公会堂があるのが目印です。時折車が通りますが、とても静かな場所ですね。壇ノ浦からは木屋川(こやがわ)に沿って上流のかなりの山奥になります。距離的には瀬戸内海より日本海に近いです。道の駅からは20分くらいです。
御陵墓の横の豊田湖湖畔には、 「古刀出土の地 正面前方五十米湖底内数本出土」「御衣濯の池 左前方凡三十米崖下湖底」 の2つの石碑が建てられています。この場所に立つと、ご陵墓や湖にそれなりに何か感じるような気がします。
では。
(撮影日2008.12.27)