龍福寺西門(にしもん)です。龍福寺本殿の西には墓地がありますが、その墓地の横を生け垣が囲っています。長い生け垣の中程にこの西門があります。これは再建されたものなので、ここから中に出入りできないよです。
館跡の西辺の調査で小規模な門跡が見つかりました。この門は地面に穴を掘り、柱を据え付けて、その両側を石で押さえ安定させるつくりで、地面には砂利が敷かれていました。この門は、屋敷地内における位置や大きさから考えて、正門ではなく屋敷の中の区画を仕切る内門であったと考えられます。発掘調査で発見されたのは、柱を据える穴と柱を両側から押さえる石と砂利敷きだけでしたが、江戸時代はじめの木割の秘伝書「匠明」や、この門とほぼ同時期の京都の風景を描いた「洛中洛外図屏風」などを参考にして当時の姿を復元しました。(現地の説明板より)
龍福寺西門と同じ並びには「石組溝(いしぐみみぞ)」があります。
館跡の西辺の調査で石組の溝が見つかりました。溝底には水が流れた痕跡が見られたことから、排水溝であったと考えられます。この溝はここから少し南で西側に折れ曲がっています。溝は折れ曲がってしばらく西に行くと、西堀により壊されているので、この溝が機能していた時期には館の敷地はさらに西側に広がっていたものと考えられます。この溝は1500年代前半につくられ、北にある西門がつくられる際(1500年代中頃)に埋め戻されたようです。(現地の説明板による)
龍福寺の山門の東側には池泉庭園があります。水はなく池の底が見えています。ここはまだ修復途中のようです。
大内氏館跡では、戦国時代につくられた庭園の跡が3か所でみつかっています。このうち、水をたたえた池をもつ池泉庭園が2カ所、石組だけで水の流れを表わした枯山水庭園が1か所あります。史蹟指定地の東南部の池泉庭園は平成4(1996)年度の発掘調査で発見されました。池の中ほどに中島が浮かび、東岸の石組水路で導水すていました。また、水際には護岸石を巡らせるほか、北岸に石積を築いていました。出土した土器の年代などから、15世紀の終わり頃につくられ、大内氏が滅びる16世紀中頃までの約半世紀の間使われていたと考えられています。(現地の説明板より)
西門の北側には、生け垣に囲まれて枯山水庭園があります。
この庭は水を使わずに石や砂で水の流れを表現する枯山水庭園で、滝から滝壷に流れ落ちた水が建物の周囲を流れていく様子を表現したものです。この庭は1500年代前半頃つくられ、1500年代中頃に火災で庭園としての機能を失いました。火災の跡に庭石のいくつかは動かされ、また西側の一部は西堀の掘削により壊されました。そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものと言えます。この庭は破壊を受けているものの、当時の姿を比較的良く残していることから、露出して整備することとし、石が抜けた部分には石を補充し、遺構が全く残っていない西部には土手状に盛土をして植物を植えました。(現地の説明板)
続きます。
(撮影日2009.01.09)