山口市内を散策してきました。その8大内文化の名残り龍福寺(大内館跡)
山口市内を散策してきました。その8大内文化の名残り龍福寺(大内館跡)

山口市内を散策してきました。その8大内文化の名残り龍福寺(大内館跡)

龍福寺(大内館跡) その1

商店街から話はちょっと前後します。八坂神社から下竪小路へ向かって歩いて行くと山口ふるさと伝承センターがあります。そこを通り過ぎると左側に大きな案内板があって龍福寺の入り口があります。龍福寺は大内氏滅亡後、大内氏の館跡に毛利隆元が建てた大内義隆の菩提寺です。

 

龍福寺(大内館跡) その1

このあたりが山口市のなかでもいちばん山口市らしい場所ですね。龍福寺は大殿大路と堅小路の間にあります。すぐ近くには山口赤十字病院、大殿(おおどの)小学校などがありますが、車の騒音なども聞こえずとても静かです。

 

龍福寺(大内館跡) その1

本殿の地下は発掘調査中でした。発掘調査が終わると本堂の修復が行われということです。山門の向こうに見えているのが修復のため本堂を囲っている仮の建屋です。ということで、現在は本堂を見ることができません。

 

龍福寺(大内館跡) その1

山門をくぐってすぐ左にあるのが「豊後岩」。豊後岩とは、

大内氏は歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇をはっていたが、後には防・長・芸・備・石豊・筑の7カ国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。当時世の中は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和を保っていたので、戦乱の都をさけて、この山口に来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の繁栄があった。大内氏はこれら来訪の客をもてなすため、邸前に宏大壮麗な築庭をした。そこには流水があり、また、当時珍しい蘇鉄が植えられたりしたが、使用した岩は全部豊後の国から舟でもってきたものであった。しかしこれらの岩は、豊後の国を恋しがって雨の夜は「豊後に帰りたい」といて泣いていたという。そのような立派な庭も大内の滅亡後は荒廃して、わずか豊後岩だけがここに残って、往事の栄えの跡をしのばせている。(現地の説明板による)

続きます。

(撮影日2009.01.09)