昨日は雷が立て続けに鳴り響いていました。突然降ってきた激しい雨の中、道路には水が溢れていました。ワイパーを最速で動かしても前が見にくい中、水をかき分けながら家まで帰ってきました。
あと10分で家というところまで帰ってくると地面が濡れた様子がありませんでした。奥さんに聞くと雨は降らなかったよ、と言ってました。
最近は気温が30度では暑くない、と思うようになった今日このごろ、みなさんどうおすごしでしょうか?。私はといえば山の中でこけたのでマダニにやられたかと思いつつもう大丈夫と思う今日このごろです。
さて、最近は本ばかり読んでいて、動画や映画のDVDを見ることがなかったのですが、本を読むのに少々疲れたので、久しぶりに映画を見ました。
これはかなり前にテレビの衛星劇場で放送されたものを録画して見てなかったものです。高峰秀子が主演の「二十四の瞳」です。原作は壺井栄ですね。
写真は2003年に旅行で行った時の「二十四の瞳映画村」です。
映画はこの岬の分教場からはじまりまり、また終わります。というか続きます。分教場というのは今で言う分校。先生は2人しかいません。定年前の最後をここで過ごす男先生と、教職のキャリアをここから始める女先生。壺井栄の原作では「うんと年寄りの男先生と、子どものように若い女先生」と書かれてます。
この物語は昭和3年から昭和21年までの18年間の、分教場と本校での先生と生徒のふれあいを描いた物語です。
戦前のどこにでもあった日本の地方での話。日本のどこもが貧しくて、生きていくことが必死だった時代。私の親が子供時代を過ごした時代です。
貧しくて親は働いて子供が家のことをしている。食事の準備だったり小さな妹や弟の面倒を見たりして、学校にもまともに通えない子がいる。
例えば松江のエピソード。百合の花の弁当箱が欲しかったこととか、死んだ妹のこと、修学旅行先の食べ物屋でであった時のこと。今では考えられないのだけれど当時ではありふれた話であふれてます。これは悲しい。
物語のはじめは大石先生は洋服を着て、元気に挨拶をしながら自転車で颯爽と登場します。分教場までは50分もかかるというのに、とても爽やかで元気です。
大石先生は戦時中の教育に疑問をもって教員をやめてしまいます。大石先生には子供ができるのですが、戦争で夫を事故で娘を失います。反戦を積極的に主張しているわけでは無いけれど、教え子も戦争がなければ死にませんでした。
ふたたび教員になって分教場に戻ってきた大石先生は、今度は教え子の子供を教えることになります。このとき岬に行くときは和服です。背を丸めてとぼとぼ歩いていきます。最初に赴任した時の希望に溢れた元気さを思い出すととても悲しい。
この映画は1954年制作なので白黒です。
今では大石先生が通った道、子供たちが先生に会うために泣きながら歩いた道は車で簡単に行けます。90年も経てば世の中劇的に変わるものです。貧困や戦争は未だに残っていますが、こんな悲しい物語は繰り返して欲しくないものです。
では。