謎とロマン漂う楊貴妃の里へ行って来ました。
謎とロマン漂う楊貴妃の里へ行って来ました。

謎とロマン漂う楊貴妃の里へ行って来ました。

楊貴妃の墓

油谷湾にある楊貴妃の里へ出かけてきました。いかにも中国風な建物が見えてきました。

 

楊貴妃の墓

これが五輪塔で楊貴妃の墓といわれているものです。まわりの石をよく見ると、積まれた石が下に落ちているのもありました。

 

楊貴妃の墓

謎とロマンただよう伝説 楊貴妃の墓
唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、安禄山の乱に会って蜀へ逃避する途中、長安の郊外、馬嵬の仏堂で絞殺されたと史書には示されております。しかし巷では楊貴妃は実際には死んでいないという噂もあったようで、有名な「長恨歌」の中にも日本への東航を想像させる表現があります。ここ久津の地では、昔から楊貴妃にまつわる伝説が語り継がれてきました。二尊院に残されている江戸時代の文章には、次のような言い伝えがあります。「唐の天宝拾五年七月(756年)空ろ舟にのった楊貴妃は、唐渡口という所へ漂着。まもなく死去し給うたので里人相寄り当寺院に埋葬した。玄宗皇帝の思い切なるため楊貴の霊が彼地に往来したのか、幾夜か夢枕に立たれ、皇帝は楊貴妃の死を知った。愛情やるかたなく追善のため、弥陀、釈迦の二尊像と拾三重の大宝塔をもたせ、家来の陳安を日本に遣わした。陳安は探したが、楊貴妃がいずれの地に漂着したか分からず、やむなく京都の清涼寺へ二尊仏を預けて帰国した。後に漂着地が久津と分かったが、清涼寺では本朝無二の霊仏として評判が高かったため、手放すのが惜しくなった。そこで全く同じ仏像を仏工の名手に作らせ、新旧の仏像一体ずつを清涼寺と当寺院で分けて安置することになった。その後、楊貴妃の墓、侍女の碑を漸く建てることが出来た。」以上が伝説の大要で、中央の五輪塔が楊貴妃の墓と言われるものです。(現地の説明板による)

 

楊貴妃の墓

県指定有形文化財 二尊院 五輪塔
この五輪塔は、鎌倉末期の中央様式を踏まえた秀作で見事な調和美をみせている。一般的に五輪塔は、密教が盛んになってから造られ、下から地・水・火・風・空の順に組まれ五大(一切の物質の要素)をかたどるという。周囲は墓地で、そのほぼ中央に一段高く敷地が作られ、3基の塔を中心に数多くの石塔が集められている。この雑多の石塔群は、いつのころからか各地から集められたものという。地下上申及び風土注進案では、この五輪塔は楊貴妃の墓と伝え記している。中央塔 花崗岩石 総高153センチ 右の塔 総高114センチ 左の塔 総高106センチ(現地の説明板による)

 

楊貴妃の墓

盃状穴
この石は「盃状穴」といいます。二尊院の五輪塔前の墓地にあったものです。盃状穴は、ヨーロッパの旧石器時代、洞穴の壁画に描かれた赤や黒の斑紋が、その源であろうと考えられています。スカンジナビア、フィンランド、中央アジア、シベリア、韓国などにも見られるもので、スウェーデンのように民間信仰として今に伝わっている所もあります。石に穴を穿ち、穴に物を入れてお祈りしたものですが向津具地区では、何を入れて何を祈ったのか、いつまで信仰があったのかわかっていません。石のあった場所が楊貴妃伝説のある五輪塔近くであることから、子供のことや一家の繁盛などをお祈りしたのではなかろうかと思われます。長門市教育委員会(現地の説明板による)

 

楊貴妃の墓

二尊院には「安産・子授・縁結」の案内がかかっています。安産祈願も行なっているようです。

 

楊貴妃の墓

楊貴妃像
この像は、中国陝西省興平県馬嵬坡(せんせいしょうこうけんばかいは)に建立されている、唐の六代玄宗皇帝の愛妃で世界の三大美女とうたわれた楊貴妃の像と同一のものを、「ふるさと創生事業」の一環として、中国大使館をはじめ、次の関係者のご協力をいただき、四川省成都産の大理石(漢白玉)を使用して中国西安市で制作したものです。(現地の説明板による)

 

楊貴妃の墓

楊貴妃の里はテレビで紹介されたようです。正月あけてすぐの午前中だったのでこの時は他の観光客はいませんでした。
以前家人と来たときは、団体客が来てました。すぐ横の売店(土産物売り場)も閉まっていましたね。

では。

(撮影日2009.01.05)


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