来嶋又兵衛誕生の地
来嶋又兵衛誕生の地

来嶋又兵衛誕生の地

来嶋又兵衛誕生の地

来嶋又兵衛翁(1817~1864)文化十四年に、ここ高泊村高須、喜多村正倫の次男に生まれた。幼名は亀之進また光次郎といい、天保七年(1836)に俵山村(長門市)の来嶋又兵衛政常の聟養子となり、後に、又兵衛政久と改名した。両親とも長州(萩)藩士であった。新居を妻タケの実家厚保本郷(美祢市)の大庄屋格・来嶋清三郎宅の近くに構えた。

 

来嶋又兵衛誕生の地

(中略)
禁門(蛤御門)の変は、文久三年(1863)八月の政変で、都落ちした藩主の毛利敬親・元徳父子、および三条実美ら七卿の雪辱のために、又兵衛が急先鋒となり、遊撃隊を率いて京にのぼり、禁門の蛤御門でここを守る薩摩や会津の兵との間で起きた戦いである。森鬼太郎と変名し、馬上で采配を揮って真っ先きに進撃した又兵衛は、薩摩兵の銃弾にあたり落馬して果てた。特に元治元年七月十九日、四十八歳であった。首級は甥・喜多村武七が故郷に持ち帰った。(現地の説明板による)

 

来嶋又兵衛誕生の地

190号線バイパスの内側のバス通りに小さな神社があります。樹木で薄暗いその敷地内に誕生の地の石碑が建てられています。人の背丈ほどもある高くて大きな石碑です。

 

来嶋又兵衛誕生の地

では。

(撮影日2008.06.08)


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