Hudson Mohawke “Cry Sugar”
「知の最先端」読みました。
カズオ・イシグロのところだけですが!。
カズオ・イシグロの章は(2006年4月に翻訳がでている)「わたしを離さないで」についてのインタビューでした。物語の背景生い立ち、なぜこういう物語を書いたのかが語られています。
読み終わって「わたしを離さないで」を本棚から引っ張り出してきました。(写真は原書ですが翻訳の方です。)
主人公はキャッシー・H.。ヘールシャムという孤児院のような施設でトミーや他の友だちと生活しています。なぜ彼らの名字がイニシャルなのかは読んでいるうちにもしかして、と想像されてきます。それまでは微笑ましい楽しい子供の話にすぎません。
つまりその世界のなかにいる人は、外界が十分理解できないというふううに。子どもが生きてる、いうならばバブル(気泡)のなかに流れ込む情報を、大人たちがかなり慎重にコントロールできる場所です。(中略)
知の最先端 第7章 愛はクローン人間の悲しみを救えるか
精神的な面から見ると、子どもというのはいわば、このようなバブルのなかに入れられていて、それはまったく正しいことなのです。子どもを人生の厳しい現実から守るためです。(中略)
でも、あるレベルでいうと、それはわれわれの子ども時代と同じで、外界で起きていることの多くが理解できないのです。言葉だけを聞いても実際にはそれがどういうことを意味するのかわかりません。
彼らは臓器の提供者としてのクローン人間です。なのでヘールシャムを出た後の人生は短いです。どのような職業(たとえ介護人)であってもそれは変わりません。常に死を恐れながらヘールシャムでの楽しかった生活を胸に生きています。
しかしながら、普通の人でもこれは同じなんだとカズオ・イシグロは言います。
幸運であれば、七十歳、八十歳、おそらく九十歳まで生きることができますが、二百歳までいきることはできません。つまり現実には、われわれの時間は限られているのです。いずれ老化と死に直面しなければなりません。
クローンは物語のための世界設定なのでクローンは(SF小説のように)小道具的には使われてはいません。クローン人間を描いてはいますがその生き様は人間と変わらないのです。(「約束のネバーランド」と違うところ)
誰にもある人生で輝いていた頃、誰にでもある何気ない生活、誰にでも訪れる人生の終わり。できれば輝きは一瞬ではなくて何度か輝きたい。できればずっと。
「忘れられた巨人」は息を殺して読みましたが、結局良くわかりませんでした。「日の名残り」は想像できなくてつまらなかったです。
「充たされざる者」と「クララとお日さま」は電子でもっているのだけどまだ読んでいません。早く読まなくちゃ。
2月から読み返していた「わたしたちが孤児だったころ」は上海の昔住んでいたの家を訪ねたあたりで止まっています。これまでは紙で読んでいたのですが、はかどらないのでこれからは電子で読もうと思います。
では。