この梵鐘は室町時代周防長門など七か国の守護であった大内義隆が享禄五年(一五三三)に大内氏の氏寺興隆寺に寄進したものである。総高が一八九センチ、口径が一一一・八センチの巨鐘で、朝鮮鐘の影響を多く受け、乳の間四区の間に四天王、草の間に雲竜文様を鋳出すなど、随所に装飾が賑やかにつき、大内文化を代表する工芸品である。銘文から筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の作であることがわかる。広隆寺は大内氏の氏寺で、大内氏全盛の時は非常に栄えたが、大内氏滅亡後は衰え、明治になり堂塔もなくなった。(現地の説明板による)
梵鐘は昭和34年12月18日国の重要文化財に指定されました。
興隆寺は大内氏の氏寺で、大内氏全盛の時は大いに栄えたそうです。大内氏滅亡後は衰えて、明治には本尊をまつる釈迦堂は山口の龍福寺に移築され、堂塔もほとんどなくなりました。
興隆寺は1341年全焼、1349年に本堂の再建がなされています。本尊もこの時に造られたものと思われています。この本尊「興隆寺本尊釈迦如来坐像」は仏殿に安置されていて、昭和51年山口市の文化財に指定されています。この建物は妙見社。大内氏の氏神として勧請された古社で、大内氏が栄えた頃は一般の者は参拝できぬほど格式がありました。もとは興隆寺の後山にありましたが、明治に現在地に移されました。(「ふるさと山口」)
写真を写していると、一人の女の子が走り寄ってきて、参拝し、その後、鐘をついて、またどこかに行ってしまいました。あっと言うまです。いつも鐘をついて遊んでいるんでしょう。とても大きく重く、澄んだ音色でした。鐘は自由についてもいいみたいですね。せっかくなので私も1回ほど鐘を撞いてきました。ときおり車が横の上のゴルフ練習場に入っていく以外は、風や風になびく草木の音しかしません。興隆寺のある場所は、西方便山に近く、山里の静かな場所で、空気は澄み、まるで650年の前の時が甦ったような感じがしました。
境内には「氷上に暑をさく」の碑がありこの地、氷上の由来が刻まれています。
では。
(撮影日2008.10.11)