福原和勝旧宅跡
福原和勝旧宅跡

福原和勝旧宅跡

福原和勝旧宅跡

長府庭園と美術館の間の道を黒門方面に行った住宅街の中にあります。

 

福原和勝旧宅跡

福原和勝は集童場で学んだ者の一人。長州が明治維新の原動力になり得たのは吉田松陰がいたからだからこそだと思っていますが、集童場などの私塾の力もかなりあったのだと思います。

 

福原和勝旧宅跡

長府藩士村上小平太の三男として生まれ、同藩士福原俊親の養子に迎えられる。和勝は、文久三年(一八六三)泉十郎 有川恒槌ら有志と長府藩精兵隊を組織、元治元年(一八六四)には熊野直介らと藩校「集童場」の設立に尽力し、藩内年少子弟の育成を計る。また同年八月には、英米仏蘭四国連合艦隊との攘夷戦に参戦、長府藩報国隊の結成にも参与するが、のち奇兵隊に投じる。さらに慶応二年(一八六六)第二次長州征討の四境戦においては報国隊軍監として豊前に転戦、戊申の役にも参戦し著しい軍功をあげ、維新後の明治三年、英国に遊学し同五年に帰朝、陸軍大佐に任じられる。その学識深く、勇敢知略に富んだ人柄は、将来、日本陸軍の中心たる人物として大いに嘱望される存在であったが、明治十年の西南の役に第三旅団の参謀として出征し、同年三月、肥後岩村の戦いで負傷。二十三日、ついに三十一歳をもって生涯を閉じた。(現地の説明板による)

この頃活躍した方は若くして亡くなられてますね。私は何十年も前に31歳なんて通りすぎてしまいました。そして残念ですが、何も残せてないですね。長府庭園や美術館には人はたくさん訪れますが、ここを訪れる方は皆無です。この看板以外当時を偲ばせるものは残っていません。

福原和勝 – Wikipedia

では。


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