山口市内を散策してきました。その12豊栄神社と野田神社
山口市内を散策してきました。その12豊栄神社と野田神社

山口市内を散策してきました。その12豊栄神社と野田神社

豊栄神社(とよさかじんじゃ)・野田神社(のだじんじゃ)

豊栄神社(とよさかじんじゃ)です。菜香亭のすぐ横にあります。また近くには今八幡宮、陸上自衛隊山口駐屯地があります。

毛利元就公を祀る神社で、もと別格官幣社であった。江戸時代長州藩主であった毛利氏は、萩城内に元就公を祀る社を建立したが、幕末毛利氏の山口移鎮に際して山口に移した。

 

豊栄神社(とよさかじんじゃ)・野田神社(のだじんじゃ)

明治2年、朝廷から豊栄神社の神号を賜った。社宝の元就公画像は重要文化財指定で、その外元就公所用の武具や遺墨を多く蔵している。隣接する野田神社は、幕末の英主毛利元親公を祀る神社である。(現地の説明板による)

 

豊栄神社(とよさかじんじゃ)・野田神社(のだじんじゃ)

野田神社(のだじんじゃ)です。

鳥居をくぐって拝殿の前に立つと右に豊栄神社が見えます。鳥居、本殿、拝殿は別々にありますが、この2つの神社は同じ敷地、境内にあります。どうなっているのかわかりませんが社務所は一つのようですね。

御祭神は毛利敬親および毛利元徳です。敬親は毛利藩主十三代の藩主で幕末維新の時に藩士を指揮して近代国家の成立に努力し、明治四年に山口で亡くなりました。元徳は敬親の養子で幕末維新の時には父敬親を補佐し命じ二十九年に亡くなりました。社宝として、重要文化財の太刀(銘助友)のほか毛利家伝来の能衣装、甲冑など貴重なものがたくさんあります。(現地の説明板による)

 

豊栄神社(とよさかじんじゃ)・野田神社(のだじんじゃ)

野田神社と豊里神社の間にある「百万一心」の石碑。すぐ横に「束矢のおしえ」の説明板があります。

百万一心 「百万一心」と大きく門司を掘った石が、かつての毛利氏の居城郡山古城跡姫丸壇の石垣にあり、文化十三年(1816)にそれを実際に見た藩士武田秦信が、この石を御城守護の心柱であったであろうと神に写し取って、明治十五年に豊栄神社に奉納した。その礎石の所在はいまや不明である。百の字は特に一画を省いて一日とし、万の字は略字によって一力とし、一日一力一心とも解され、「日を一にし力を一にし心を一にす」とう衆人協同の意であるとされる。(現地の説明板による)

 

豊栄神社(とよさかじんじゃ)・野田神社(のだじんじゃ)

山口市指定有形文化財の「野田神社能楽堂」です。

神社の入り口右にあります。この能楽堂は昭和11年に明治維新70年記念事業として長州藩主の末裔毛利元昭公により野田26番地の11(野田神社境内)に建立されたもので、その設計・監理は社寺建築設計・小林建築事務所(東京)の手によるものである。総檜造りで、橋掛、鏡の間および楽屋控の間を構え、建築面積約238㎡規模の点からしても本格的な能楽堂である。全国的にみても能楽堂の建築は数が少なく、とりわけ西日本に関してみれば10棟を超えないものと思われ、その中でも当能楽堂は規模、質の点で一流の能楽堂であると思われる。当店の建築場所は、現在地より西の野田学園運動場内にあったが平成三年に現在地に移築され補修が行われた。(現地の説明板による)

続きます。

(撮影日2009.01.09)