八坂神社の境内にある「箏曲組歌発祥の地」の碑です。
天文年間(1532~54)のこと、山口の大内義隆卿は、卿から迎えた北の方を慰めるために、
しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが、
ある時その席で7人の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、
つぎつぎに箏で弾き歌いすることが行われた。
これが箏の組歌の起源であり、歌の組み合わせなので組歌と言う。
これゆえ最初の組歌の曲<<ふき>>の歌詞は七首になったが、
やがて一人が早世したため以後の曲では六首になった。
(中略)
この「箏曲組歌発祥の地」の碑は、
この所伝をよすがとして箏曲組歌の誕生期にに思いを馳せ、
あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地角界の多数の人々の熱意と浄財によって、
昭和40年11月、ここ大内氏ゆかりの地に建立されたものです。
(現地の説明板による)
堂々とした風格のあるおおきな石碑ですね。
石碑に刻まれた文字は佐藤栄作によるものだそうです。
「盃状穴が刻まれた巨石」
盃状穴は、性のシンボルとして、死者をよみがえさせることや、
方策を願うことを意味する刻印と考えられている。
卿でも、一種の「願」をかける場として使用されている。ヨーロッパでは、
田舎の女性が男児出産を祈る時に、盃状穴を訪ねたり、
夜間にバターを盃状穴に流し込んで祈れば、
その年の家畜と農業の生産高が上がるという信仰が続いている。
この盃状穴の歴史は古く、先史時代のヨーロッパの岩陰に刻まれているものや、
2000年前の頃の朝鮮半島で盛んに造られたお墓(支石墓)の蓋石に
刻まれていることがよく知られている。
わが国では、昭和55年に発掘調査が行われた
山口市大内「神田山石棺群(こうだやませっかんぐん)」の
箱式石棺墓の墓石に刻まれた盃状穴が最初の発見である。
(現地の説明板による)
宗祇句碑です。
「池はうみ こずゑは夏の 深山かな 宗祇」
この連歌は宗祇の「老葉集」に収められているみたいです。
「大内氏月見之松記念」の石碑です。
月見松とは大内氏時代以来の名木だそうですが、
安政3年に燃えてなくなったとのことです。
続きます。
(撮影日2009.01.09)