映画を見る前にファウルズの魔術師について
映画を見る前にファウルズの魔術師について

映画を見る前にファウルズの魔術師について

 

昨日、「DVD買ったよ!」と書いた「怪奇と幻想の島」ですが、原作の「魔術師」について1999年にwebに書いたものが残っていたのでアップします。今読み返すと当時とは違った感想になりそうな気がしますが、文章は当時のままで手を入れていません。なお、ジョン・ファウルズは2005年11月5日に79歳で亡くなっています。

ジョン・ファウルズ (John Fowles)
1926年生まれ。イギリスドーセット州ライム・リージス在住。1950年オックスフォード大学卒業後、フランスの Poitiers 大学、ギリシャの Spetsai島の Anargyrios 大学などで教師を経験した後、1963年「ザ・コレクター」で小説家としてデビュー。

魔術師Ⅰ魔術師Ⅱ「魔術師」(The MAGUS) John Fowles

「人生で一番重要な質問は、自分以外のだれによっても答えられないものですよ。」(魔術師1156p)

愛は幻想?。セックスは現実?。

「やはりぼくには愛というものが分からないんです。セックスではない愛があるとすれば。それにもう、そんなことはどうだろうとしったこっちゃないんです。」(魔術師1 147p)

幻想はリリーの狂気?現実はジュリーの肉体?。アリスンの生は幻想?アリスンとのセックスは愛?。アリスンの死は現実?愛は謎、愛は幻想。真実は現実?。

そして私たちは交わった。性(セックス)ではなく愛。性(セックス)だけのほうが遙かに賢明だったのだが。(魔術師1 271p)

愛には多少の謎が必要。相手のことが100%理解できるなんてありえない。行動や考えかたが予測できるとしたら、きっと面白くもなんにもなくて、飽きてしまいます。

「あまり近くにいるので名前を呼ぶ必要もない。」

この場合は、言葉が必要ないということ。目で意思が伝わるということ。

この「魔術師」はアリスンとニコラスの愛の物語。軽くて単純にセックスで始まった愛。アリスンは若くて自由奔放。セックスはよく知っていても愛をよくしらない。ニコラスもまたセックスは遊びとしてしか考えない。最初は単に欲望を満たすだけのセックス。

であっても、それだけでは終わらないのが不思議な愛という感情。アリスンはスチュワーデスとなり、ニコラスは教師としてギリシャのフラクソス島に赴任します。キーワードがあらゆるところにちりばめられています。心霊。早発性痴呆症。催眠術。そしてリリー。そして自由。

「きまりをつけるためによ。私はスチュワーデスになり、あなたはギリシャへ行く。あなたは自由」
「きみも自由だ」(魔術師1 33p)

 

The Magusだが男の世界では、値段をつけられなほど貴重なものは一つしかない。それはエレフセリーア、自由、です。(中略)
そこで私は大佐のために、そしてまた私のかたわらにいる人間の残骸に聞かせるために、残ってるただひとつの言葉、叫ぶべきただ一つの言葉を叫んだのです。(魔術師2 107p)

幻想の舞台は太陽の輝く明るいギリシャの島のブーラニ岬。教師としての生活は退屈で単調です。

コンヒスという謎の多い大金持ちの老人と知り合いになったニコラスは、コンヒスの別荘で繰り広げられる謎の心理劇によって愛に迷い、現実の生活を疑います。

ニコラスは幻想とも仮面劇ともわからない謎にほんろうされて、愛に迷います。

突然始まった仮面劇。ギリシャは鏡に似ています。ギリシャはあなたを苦しめる。そしてあなたは学ぶのです。(魔術師1 97p)

仮面劇の中で語られるコンヒスの語りは劇中劇となって彩りを添えます。

コンヒスの物語が心を打ちます。戦争に従軍した話。戦争からの脱走の物語り。ノルウェーの鳥好きな農夫の兄の話。パンフレット「別世界との交流」。そしてギリシャでの占領下でのドイツ将校アントンとの交流物語。これを繋げるだけで一つの映画が作れそうです。

戦争の中では、男は女をただの物体にまで貶めることができます。その点が男と女の大きな相違ですね。男は物を見、女は物と物との関係を見ます。物同士がお互いを必要としているか、お互いに愛し合っているか、お互いに釣り合っているかどうかをね。これは私たち男が持ち合わせぬ一種特別な感情の次元であって、だからこそ女らしい真の女はみな戦争を忌み嫌い-戦争は無意味な物とうのです。(魔術師2 85p)

仮面劇は終わり、コンヒスは去ります。

そして突然ジュリーが失踪します。57章よりまた新たな劇の幕が開きます。仮面劇?茶番劇?。物語はとてつもなく途方もなく怒濤のように流れていきます。

一体何が真実で、何が現実なのか?目。監視の目。私たちはいつだって誰かに監視されているに違いない。劇中だけでなく。

パルナッソスの現実。そうなんです。真実はパルナッソスの山の上にあったのだと思います。仮面劇の途中、そこだけが明るく輝いていたような気がします。

「魔術の奥の真実など、ありはしない」と王はいった。王子の心は悲しみに満たされた。彼は言った。「僕は自殺しよう」王は魔術によって死神の姿を現した.死神は戸口に立ち、王子に手招きした.王子は身を震わせた。美しいけれども偽物の島を、偽物であるけれども美しい王女たちを、彼は思い出したのである。「分かった」と彼は言った。「僕は我慢しよう」「分かったかね、息子」と王は言った。「これでおまえも魔術師になったのだ」(魔術師2216p)

真実はそして真実の愛はどこにあるのでしょうか?。

セックスはほかの快楽よりもいくらか大きな、しかしどんな点でも決してほかの快楽と異なるところのない一つの快楽なのだ、とね。そしてまたこうも言うでしょう。セックスは私たちが愛と呼ぶ人間関係の一部分にすぎず、それも決して本質的な部分ではない。本質的な部分は何かといえば、それは真実であり、二人の人間がお互いの心の間に築く信頼なのだ。(魔術師2272p)

目覚めたときにはすでに愛はないのです。そういうものです。現実はするりと抜け落ちるのです。そうセックスも愛も。そして信頼も。ニコラスは最後の最後アリスンの信頼を取り戻す努力をしなかった。ありもしない監視の目を意識して。

We stared wildly at each other for a long moment, in a kind of terror : The world had disappeared and we were falling through space. The abyss might be narrow, but it was bottomless.(“The Magus”654p)

Ⅰ巻の後書きによると数年前に(ということは35年くらい前)二十世紀フォックス社によって映画化されたそうです。監督は「ガイ・グリーン」、ニコラスは「マイケル・ケイン」、コンヒスが「アンソニー・クイン」、リリーは「キャンディス・バーゲン」(!!)、アリスンが「アンナ・カリーナ」。ぜひ見てみたいものです。

LINKS
John Fowles–The Web Site
Gen’s e-office John Fowles
室井尚著『情報宇宙論』より
魔術師(ジョン・ファウルズ著 河出書房新社 1972) – イナクロウの待ちに待った休日
魔術師 ジョン・ファウルズ|K.O.のブログ
椋の木: ジョン・ファウルズの魔術師