夜明け前の山の端が少し赤くなって暗い空が青みがかってくるころ、高い空のどこからか鳥の鳴き声が聞こえてきます。
口では表現しにくいのだけれど、短く鋭く高い鳴き声。この鳥の姿は一度も見たことがありません。時々ベランダに来るあの青い鳥だろうか?。あいつは金のなる木をくちばしでつついてダメにしてしまうので困るんだよね。鳴き声が空一面に響き渡るので烏くらい大きな鳥だろうか?、だったらちょっと怖いかも、などと想像だけはしています。
まだ冬並みに寒い朝ですがこの鳴き声で冬から春への季節の変わり目を感じます。寒暖の差が激しくて、体調が悪くなるとためらわずに風邪薬を飲んで体調を戻していますが、みなさんはどのようにお過ごしでしょうか。新型コロナや風邪なんかに負けずに元気でいきましょう。
さて、昨年の12月8日に読み始めたカズオ・イシグロの「わたしを離さないで”Never Let Me Go”」(VINTAGE版)を今朝のことやっと読み終わりました。最初は辞書を左手に、翻訳本を右手にもって読み始めたのですが、らちがあかないので原書で読むのは諦めて4月10日からは翻訳で読みました。
読んでいる途中に最新作「クララとお日さま」がでたのですがこれはまだ買っていません。「忘れられた巨人」までは単行本と電子書籍両方買っていたのですが、今回は紙をやめて電子書籍だけにしようと思っているところです。
英文と突き合わせて読んだのは最初の何十ページだけなのですが、なぜこんな訳し方をするのか全く理解できないくらいに素晴らしくわかりやすい日本語に訳されていて物語が心にしみこみました。
最初は聞きなれない単語が出てきて、状況が全く理解できません。孤児院らしい施設で子供たちが生活しているのですが、しだいにクローンたちの、それも臓器提供のためだけに生まれてきた子供たちの物語であることがわかります。そのことが分かった瞬間衝撃がはしり物語の見方が180度変わります。
2部、3部と読み進めていくと(クローンであることがこの物語の柱であることは間違いと思うのですが)、これは友情と愛情の物語じゃないのかなと思うようになります。
友情と愛の物語なら、それがSF的な近未来でも、ラノベ的な異世界でも、江戸時代の時代劇であっても問題ないですね。カズオ・イシグロはSFを書きたかったのではなくて、人の心を描きたかったんだと思うんですね。15年前に読んだ時はそうじゃなかった。クローンという世界にとらわれすぎていた気がします。
これは、その前の年に公開された映画「アイランド」を見た影響もあるでしょう。「アイランド」では「コロニー」、「わたしを離さないで」は「ヘールシャム」が(臓器提供のための)クローンの飼育場です。
映画の中でキャシーたちが腕輪でチェックを受けていたところは、(アップルウォッチで改札を通る様子と変わらないような気がしますが)このシーンは小説にはないのでこれもアイランドの影響かもしれません。
アインランドでは、臓器提供から逃れるためにクローンたちは戦うのですが、キャシーもトミーもルースも、ヘールシャムやその他の施設出身者も戦わないで、運命を静かに受け入れ使命を果たして人生を終わります。
知り得たすべてをルースと分かち合いたいと言うとき、それはルースやわたしがトミーと違ったままで終わったことが悲しいからです。一本の線のこちら側にわたしとトミーがいて、あちら側にルースがいます。こんなふうに分かれているのは、わたしには悲しい事です。知ればルースもきっと悲しいでしょう。
(341ページ)
ルースとキャッシー、トミーとの違いはルースが「信じたがり屋」で二人が「知りたがり屋」かの違いだとトミーは言うのですが、世界を知っても運命は変わらなかった、だったら信じたほうが幸せなんじゃないかな。
トミーは4度目の提供ののち使命を終えます。介護人の仕事を終えたキャシーにも提供の通知が来ることでしょう。一人になったキャッシーも静かに運命を受け入れ、一人静かに使命を終えるのでしょう。
この物語を読み終えて思うのは、今の私の人生とキャシーの人生のどこが違うのだろうか?ということです。
クローンたちの使命は生まれたときから臓器を提供することだと決まっています。努力して生きようとしてもそれは受け入れられません。何も変わらないのです。
今の私はどうなのだろう。目標を決めて努力して何か変わったのだろうか。これから何かをすれば、何か変わるのだろうか。クローンたちの人生は目的がはっきりしている、私の人生の目標は今は特別ない。四度目の提供は死だけど、それさえも目標だった。私の何度目かわからないけれど、最後の目標は何?。これからどうしたらいいのか。
私は俗物なので、そう考えた後、そのこと忘れて、今日の買い物や明日の仕事のことを考えながらまた生活していくのだろうけど。
では。