厚狭川の砂金の公園を上流に行くと、沓(くつ)古墳があります。古墳時代後期の古墳で、横穴式石室があります。さらに上流に行くと道が川沿いと山側へ分岐します。山側に向かうと美祢線が走っています。川沿いにいくと寝太郎堰が見えてきます。
いまから約1400年あまり前(古墳時代後期)、厚狭川の流域ここ沓の地一帯を治めていた村長(むらおさ)がおりました。下流の平地に広がる水田を潤す厚狭川の水の管理をまかされていたのでしょうか。亡くなった彼の墓は、多くの村びとたちの手でここに築かれました。丸く土をもり、中に石を積み上げた部屋をつくり、床に石を敷きつめ、木の棺に納められた遺体が安置されました(片袖の横穴式石棺)。入り口はたくさんの石を積んでふさがれました。遺体と共に多くの品物が納められたのでしょうが、のこされていたのは、40本の弓矢と鉄の刀だけでした。彼の左の手には、黄金色に輝く珍しい銅の腕輪がはめられていました。旧山陽町には、西下津の長光寺山古墳、惣社の妙徳寺山古墳など大きな古い前方後円墳と、平地をのぞむ山裾に点在する、沓古墳のような小さな新しい時期の古墳が今もなお数多くのこっていて、古墳時代の歴史を伝えてくれています。 山陽小野田市教育委員会(現地の説明板による)
では。
(撮影日2008.09.02)