お盆が近づくと父のことを思い出す。
病院はかつては結核の療養所だったところで、町中からは少し離れていた。病院は海辺に建っていて、窓からは瀬戸内海が見えた。ある時、車椅子を押して病院の庭に連れて行った。夕日で照りかえす瀬戸内海を見て父はぽつりと言った。「病院に入ってからどんどん動けなくなる。」入院したのに病気がよくならないので悔しかったのだろう。
父は健康診断は必ず受けていた。白血球が多いのは常だった。調子が悪くなる前も特別変わった数値ではなかった。胸がすっきりしないと言って、ハッカ入りの飴をなめていた。ヘビースモーカーだったのでタバコの吸い過ぎだと思っていたらしい。
妻とは付き合ってまだ半年ほどだった。彼女は運転免許を持っていないので、大量のバスタオルを持って駅からタクシーでやってきた。その頃はすでに内臓がぼろぼろの状態で、輸血の血が胃から漏れて、何度も吐血していた。輸血しても輸血しても足りなかった。病室は常に血の臭いが充満していた。タオルは常に何枚も必要だった。意識がはっきりしない父は妻のことを従兄弟の誰かと間違えて、よく来てくれたと言った。
入院してすぐ、丸山ワクチンをもらいに東京まで行った。大きな講堂みたいなところに、ものすごく大勢の患者の家族がいて、静かに順番を待っていた。病院の先生に頼み込んで丸山ワクチンを打ってもらった。何回か注射をしてもらったのだけど、この頃には、もう打てないと言われた。結局ワクチンは役にたたなかったけど、出来ることはしたという気持ちだけは残った。
夕方、病室は静かだった。蝉の声だけが暑さに拍車をかけていた。病室は薄暗くなりかけていた。父が息を引き取った時、壁にかかっていたカレンダーが、風も吹かないのに落ちた。魂が病室を飛び交ったように感じた。
葬儀も終わり、保健所に被爆者健康手帳を返しに行った。ありがたいことに多少なりとも葬祭料が出た。その時何か言葉をかけてもらったと思うのだけど、よく覚えていない。当時のこと、いろんな大変なことがあったのだけど、それもほとんど覚えていない。
父親は被爆した時のことをあまり語らなかった。引っ越しの途中だったこと、爆心地に近いところで被爆したこと、その時はリヤカーを引いていたこと、すぐ横の建物の壁で直撃を逃れたということ、それくらいだ。もっと聞いておけばよかった。子供はいつも親の歴史を後になって知りたくなるものだ。
私はもうすぐ父が亡くなった歳になる。今年の夏は30年前の夏以上に暑い。