浮石義民庄屋旧宅跡地(とよた田園空間博物館4)
今なお語り継がれている浮石義民五人の一人庄屋藤井角右衛門旧宅があった。宝永7年(1710)、浮石義民は厳しい年貢取立てに対し幕府巡見使に年貢減訴状を差し出し、身を犠牲にして浮石村の農民を救った。跡地内にある顕彰碑は、長崎 …
今なお語り継がれている浮石義民五人の一人庄屋藤井角右衛門旧宅があった。宝永7年(1710)、浮石義民は厳しい年貢取立てに対し幕府巡見使に年貢減訴状を差し出し、身を犠牲にして浮石村の農民を救った。跡地内にある顕彰碑は、長崎 …
浮石義民直訴の地の石碑です。 とよた田園空間博物館の1番目のサテライトミュージアム。 みのりの丘の裏道からだとほんの5分の場所にありますが、回りには何もなくて山が近くてものすごく辺鄙なところに …
安徳天皇を腕の中に抱く二位の尼(だと思う、でなければ母親の建礼門院かな?)の像。像の下の台座には平家物語の一節が刻まれています。 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 生者必衰の理りをあらはす おごれる …
朝鮮通信使上陸淹留之地(ちょうせんつうしんしじょうりくえんりゅうのち)の石碑です。赤間神宮の駐車場の横の阿弥陀寺公園に建てられています。 朝鮮通信使については下関観光協会のページを読んでいただければわかりま …
福原邸跡であることを示す石碑です。 説明板です。 福原邸は、福原元俊が寛永二年(1625)宇部領八千石領主として入部して以来明治に至る約二五〇年間、諸政務が行われてきたところである。もっとも福原氏は毛利藩永 …
吉田宰判勘場御茶屋跡は吉田旧街道から住宅街へ一本入った道筋にあります。 壁は崩れていて、建物は原型をとどめていません。 こんな感じです。いずれ全部崩れ落ちてしまいそうです。 藩政 …
笹尾道場は文政年間に笹尾羽三郎と笹尾万次郎の兄弟が開いた道場です。来嶋又兵衛は笹尾卯三郎とともに大石神影流の免許を授かっています。 弟尾羽三郎が刀術、剣術、兄の万次郎が槍術を教えた。笹尾家は、吉田がまだやま …
長府の功山寺の前の道をずっと南へ下ったところにあります。この道は野久留米街道(のぐるめかいどう)と呼ばれています。川のすぐ横の小さな桜の樹の前にこの石碑が建てられています。 この石碑は日露戦争で戦死し、軍神 …
野久留米街道から坂を登って、高畑地区にはいると、野焼きの煙があがり、山あいに畑が広がります。山里です。長府にこんなところがあったんですね。空気も澄んでいて、狭い道の横にはお地蔵さんがまつられ、静かな景色が広がります。平家 …
平家塚からさらに上に登り、霊神社へ向かう途中分かれ道を左に曲がると、竹藪がとぎれて少し開けた場所に出ます。 その広場の奥の方にこの「旗かけの松跡」があります。 壇ノ浦の戦いで傷ついた平家の落武者が、ここまで …